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2007-05-07

言葉がなければ伝わらないのか

 連休はいかがお過ごしでしたでしょうか。大型連休を「ゴールデンウィーク」と表現したのは映画業界が最初です。大型を黄金なんて表現するのも、何だかおかしい気分です。私は古本市と映画でまったりと過ごしました。

 さて、まず見た映画は『バベル』です。
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 監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。ああ、長い名前。出演はブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、そして話題の菊地凛子。こうやって並べると、なかなかのメンツですね。

 「バベル」といえば当然「バベルの塔」のことです。天にまで届く高い塔を作ろうとした人間達を、神は違う言葉を話させるようにし、結果人間達は混乱し世界各地に散らばっていった聖書のお話。
 つまりこのタイトルから、この映画は「(言語を中心とした)コミュニケーションの断絶」がテーマであることが予想されます。日本の高層ビルは、現代のバベルの塔とでも言いたげでした。だったらアメリカの高層ビルの方がバベルの塔っぽい気がしますが……。

「(言語を中心とした)コミュニケーションの断絶」は四つの物語で表現されています。
 一つは言葉の通じない異国でアクシデントに見舞われた一組の夫婦の物語。二つ目は言葉は同じでも人種(文化)が違う人々の物語。三つ目は同じ言葉、同じ人種の家族の物語。最後に言葉どころか音も通じない聾唖の少女の物語。
 この四つの物語が入り乱れながら進行していき、唐突ともいえる編集方法で、我々の心に飛び込んできます。

 「(言語を中心とした)コミュニケーションの断絶」以外にもテーマはあります。それは、バベルの塔を作り神に近づこうとした「何もかもを支配(操作)できると思い込んでいる人間の傲慢さへのアンチテーゼ」です。
 さらに言うと「キリスト教徒であり聖書を読んでいる(だろう)国民=アメリカ人はこの『バベルの塔』の話なんか忘れてしまっているんじゃないの?」という痛烈な皮肉なのです。英語こそが国際語であり、自身の文化こそが最高で、他の異なった文化は認めず駆逐する。アメリカがイラク戦争を筆頭に行なってきた行為そのものへの皮肉。

 アメリカ人に虐げられているメキシコ人だからこそ描ける作品でしょう。
 そのためか、日本を舞台にした物語はひどく違和感がありました。他の三つの物語との繋がりも無理矢理っぽい。菊池凛子演ずる少女がストレートに言語を失った聾唖だったのは、おそらくそうするしかなかったからではないでしょうか。
(やたらと日本のメディアが騒いだ菊池凛子の演技は、熱演ではありますが、絶賛され過ぎじゃないでしょうか)

 気合の入った映画です。テーマも興味深いし、役者陣も熱演していました。しかし、私は見ている最中も見終わった後も苛立っていました。
 何故か。
 この映画の表現が、「言葉なき説明過剰」であり、それでいながら表現しきれていなかったからです。

 イニャリトゥは言葉を使わず「身体的」に表現しようとしていましたが、その「身体感覚」は「頭で考えている身体感覚」なのです。この映画と似た“匂い”がするのはトミー・リー・ジョーンズ監督・主演『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』ですが、こちらの方が「肉体の身体感覚」である。

 この違いはどこから出てくるのか? 

 トミー・リー・ジョーンズの身体感覚は、自身の経験からです。ハーバード大学出身、成績優秀でありながらフットボールのスター選手。その一方で演劇活動も行なう。俳優としてブレイクしながら、牧場を経営し、画面内でなくても彼はカウボーイであり、一貫して「肉体」を使ってきました。

 一方、イニャリトゥはラジオDJ、テレビ番組のプロデューサーから映画監督になった。つまり、彼は一貫して「頭」を使ってきたのです。

 どちらが正しい・間違っているというわけではありません。ただ「身体的」に表現しようとした時(しかもリアリズムに徹して描こうとした時)、その“差”がはっきりと現われるのです。

 私が『バベル』に苛立ったのは、「頭で考えた身体感覚」が居心地悪かったからかもしれません。

 最後に、日本のクラブのシーンで照明がチカチカして、気分悪くなる観客がいたそうですが、あれはなりますね。私は事前に聞いていたのでそのシーンでは眼を背けてしまいました。あれはピカチューだって痙攣しますね。

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