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2006-12-21

“終わり”へ全力疾走

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 『硫黄島からの手紙』を見に行きました。言わずと知れた、クリント・イーストウッドが監督した「硫黄島二部作」の日本側の作品です。

 テレビでもラジオでも宣伝しまくり、各方面で絶賛の嵐、「アカデミー賞云々」と連日メディアを騒がせており、フラットな気持ちで見ようと思っていましたが、やはり心のどこかで期待している自分がいました。

「どうだった?」
 と聞かれれば、
「うーん、退屈……」
 と答えると思います。
 『父親たちの星条旗』は圧倒的なスケールと細やかな筆力で、戦争の無意味さを「勝者という“虚像”」を描く事によって表現していました。私は傑作とは言いませんが、かなりの良作であった事は間違いないです。
 この『硫黄島からの手紙』もイーストウッドの「演出しない」演出を使い、あくまでも偏らずに描こうとし、確かに詰まっているものは濃厚だが、映画としては退屈なものとなってしまいました。

 考えるに、結局、外人であるイーストウッドには(特にあの時代の)日本人特有のナショナリズム、センチメンタリズム、ナルシズムなどが理解しきれなかったんじゃないでしょうか。日本人を扱いきれなかった。つまり、イースウッドが監督すると決まって時点で、こうなる事は半ば分かっていた事なのかもしれません。そう言ってしまうと身も蓋もないかもしれませんが。

 イーストウッドは栗林中将という人物や硫黄島での日本兵の姿を描きたかったんでしょう。
 しかし、私はある程度、硫黄島の戦いについて予備知識があったので、この映画は物足りなく感じました。逆に予備知識がないとなると、栗林中将はどういう人間なのか、この戦いはあの大戦の中でどういう意味があったのか、が全く伝わらないではないんじゃないか、と思います。中途半端、ではないでしょうか。

 ここまで批判的に書きましたが、いい作品なのは確かです。
 感傷にも感情にも流されず、“個”を見つめ続けたイーストウッドの手腕は素晴らしいです。

 私はこの作品で、敗者が描かれていると思い込んでいましたが、それは間違っていました。
 ここで描かれている日本人は敗者でも勝者でもなく、ただ国を守りたい一戦士だったのです。私達は「終わった所」から「終わってしまった」話として『硫黄島』を見つめていますが、あの当時あの瞬間では、当り前ですが、終わってなんかいなかったのです。
 栗林を始めとした日本兵達は、死という絶対的な“終わり”が目の前に迫りながら、それが確実であると薄々感じながら、それでもなお、終わりに向かって走り出していった。彼らは死に向かって生きようとしたのです。だから「散るぞ悲しき」と栗林は残したのです。イーストウッドが描いたのは日本兵の「生」への「敬意」。

 そして、物語の終盤で伊原剛志演じるバロン西は、捕らえた米兵を「殺そう」という兵士にこう言います。

《若造、お前はアメリカ人を知っているのか》

 自分達が“終わり”に向かってでも守ろうとしている国や人が、「敵」としか認識していなかった存在にもあるという事実。

 その事実を同じテーマで作品を撮ることで、より明確にさせたイーストウッド。巨匠と言われても、「ハリウッドの良心」扱いされようとも、誰も踏み込まない先へ行こうとする姿は驚嘆します。

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