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2006-02-27

野球との出会い

今年はちょくちょく更新しますよ〜。いつまで続くかわからないけど……。

先週の土曜日、高校の友達の結婚祝を兼ねてクラス会をしたんですが、友達の一人がこのブログを見てくれているらしく、感想を聞きました。たった一言「長いよ……」。宮田クン、そんなこと言わないで、ちょくちょく見に来ておくれ。そして「長いよ」以外の感想もよろしく。

そんなわけで、今回のテーマは原点に帰って野球との出会いを述べたいと思います。
自他ともに認める野球バカのワタクシですが、もちろん、生まれた時から野球バカだったわけではありません。人はよく、「お前はバットとボールを持って生まれてきたに違いない」とか、「お前の産声は『プレイボール!』だったはずだ」とか言うけれど、そんなアホな。こんなワタクシでも、生まれた時は玉(決して球ではない!)のような可愛い赤子でした(ハズです)。

さてさて、そんないたってノーマルな子供だったはずのワタクシが、野球に初めて出会ったのは、小学一年の夏でした。場所は高校野球の聖地・甲子園球場です。
両親が共働きだったため、夏休みという長期休暇中の三人兄弟の長子であるワタクシの身を案じた両親が、奈良の祖母と叔父の家に預けることにしたのがきっかけでした。
現在の殺伐とした世の中では考えられないことですが、小学一年生のワタクシは何と一人で東京から奈良まで向かったのです。とは言っても、東京駅までは母親に送ってもらい、京都駅に祖母が迎えに来てくれたので、実質一人だったのは、東京から京都までの新幹線の間だけでしたけど。

余談はこれくらいにして本題。
小学一年生の夏休み。叔父に連れて行ってもらった甲子園で見た野球。1974年生まれのワタクシが、小学一年生の時に見たということは、おそらく、あの元祖・大輔フィーバーに沸いていた荒木大輔の頃だろう。叔父も野球好きだったから、あるいは荒木見たさに幼いワタクシを連れて行ったのかもしれない。
20年以上経った今でも決して忘れ得ない原風景は、幼い少年の心を大きく揺さぶった。燦々と太陽が照りつける大きなグランドに立つ九人の選手。真ん中にいる選手から放たれるボールを大きな棒で振り回す違うユニフォームを着た選手。その棒で打ち返されるボールに沸き返る観客とそれを追う九人の選手。静寂と興奮が交差する観客席……。見るもの聞くもの全てが新鮮だったあの空間。次の瞬間、叔父に向かってこう言っていた。
「これは何? 面白いね」
そのとき初めて野球というものに出会い、野球の素晴らしさに虜になり、野球の奥深さに魅了され、野球の魔力に取り憑かれた。
帰京後、父親に言った。「野球を見に行ったよ、面白いね。あれやってみたい」
父もまた野球好きだった。巨人が好きだった、長嶋茂雄が好きだった。必然、巨人が好きになった。もちろん高校野球も好きになった。MLBも好きになった。野球がとっても大好きになった。野球に恋してしまった。野球に嫉妬してしまった。野球が嫌いにもなった。でもやっぱり野球を捨てられなかった。だから前よりももっともっと大好きになって野球を愛した。そして今は──そんな感情さえも超越した。ごく当然のようにワタクシの中に存在している──それが野球というもの。

最近、野球仲間とよく交わす言葉がある。
──野球って、ホント面白いよな──
野球って知れば知るほど、好きになればなるほど、どんどん面白くなっていくものかもしれない。だから、野球ってやめられないんだよなぁ。
──そう、まるで男女の恋愛の如く、奥深いものなのかもしれない……──

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2006-02-22

成長しなかった少年。

 間をあまり空けずに(同じ人間が)更新ですよ。

 今回は『オリバー・ツイスト』を見に行きました。あのおすぎさんが「60年生きていてよかった!」とCMで言っている作品です。
 
 監督は、『ローズマリーの赤ちゃん』が大ヒット、結婚したシャロン・テートはチャールズ・マンソンにより惨殺され、その後自宅で13歳の少女を強姦した容疑で逮捕され、保釈中に映画撮影ためヨーロッパに渡り、そのまま逃亡しちゃって、『戦場のピアニスト』でアカデミー監督賞を受賞するんだけど、逃亡犯としての罪はまだ適応されているため(実刑で50年とか)式場に姿を見せなかった、ロマン・ポランスキー(前置き長いな)。
 出演している俳優はよく知りません。まぁ少年が多いのでデビューしたての子ばかりじゃないかと。私の無知というのもあるんですが。
 原作はチェールズ・ディケンズです。

 9歳(10歳?)のオリバー・ツイストは孤児。救貧院にいたが、夕食の席で「おかわり」を求め、救貧院を追放されてしまう。そしてロンドンまで歩いていき、そこである少年に出会う。

 というのが物語です。19世紀のイギリス(ロンドン)が舞台なのですが、19世紀のイギリスというのはこんなにひどい状況だったんでしょうか。1960年代はひどかったというのは知っていますが……おかわり求めただけで「彼はいずれ絞首刑だ」と大人が軒並みクビを振り、追放されてしまうなんて……。

 CMを見た限り、「感動超大作」的なニュアンスで宣伝していますが、正直ピクリとも感動はしませんでした。というか、感動する映画じゃないです、この映画。

 少年が主人公の映画のパターンとしては、少年が様々な事件に会い、様々な人と出会い、裏切られ、助けられ、事件を解決しながら成長していくものがよくあります。
 ところが、このオリバー少年は成長というものを全くしませんでした。登場してから終わるまで、彼は一貫して同じです。身の回りで起こる事件に翻弄され続けていました。だから、オリバーというのはどういう少年なのか、イマイチ印象が弱いです。何故おすぎさんが「オリバー少年に会えてよかった」と言っているのかよくわかりません。

 誰もハッピーにはなっていないし、オリバー少年以外も誰も成長していない。誰も(ある意味)助からないし、晴れやかな気持にはなっていない。
 だからといって後味が悪いわけではありません。後味が悪いというより、何か苦い薬を飲み込んだ後、とでも言えばいいんでしょうか。うまく言葉にできません。
 
 19世紀のロンドンの風景は見事に(といっても本当の光景を知りませんが)作り上げていましたが、人物描写にもっと力を入れて欲しかったです。少々不完全燃焼、といったところ。そうすれば、更に面白くなったのではないかと思います。

 映画を見終わって、原作を読みたくなり、買いました。
 それがいいことなのかどうかはわかりません。

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2006-02-20

戦争なんてクソ食らえ。

 ついに他の編集部員が書き始め、ほっと一安心したら再びピタッと止まってしまった。一気に更新せずに分けてやってほしかったです。
 といいつつ、私も一回だけしか更新しておりません。<毎週一本映画を見る>と言っておいてこの体たらく。申し訳ありません。言い訳をさせていただけると、風邪をひいてしまい、映画を見にいけなかったのです。といって、回復して見に行ったのも結構前なので、結局は怠慢です。すみません。

 気を取り直して映画感想を。
 今回は『ジャーヘッド』です。

 『N.Y.タイムズ』が戦争文学の最高峰と絶賛した海兵隊員のベストセラー回顧録を映画化したものです。18歳の少年が海軍に入隊し、湾岸戦争下のイラクに派遣されるが、戦いはなく演習と待機、そして暇つぶし……。

 監督は『アメリカン・ビューティー』でオスカーを獲得したサム・メンデス。出演はジェイク・ギレンホール、ピーター・サースガード、ルーカス・ブラック、クリス・クーパー、ジェイミー・フォックスなど、派手さはないけど渋くて良いキャストです。
 タイトルの「ジャーヘッド」とは、ポットのように刈り上げた頭=頭が空っぽの海兵隊員という意味。海兵隊員の目から見た戦争が描かれています。

 戦争映画にはよく「この映画にはリアルな戦争が描かれている」「戦争の真実の姿がここにある」といった謳い文句が使われます。
 実際に戦争に行ったことはないので、リアルなのか真実なのかは判断できませんが、戦争映画の場合、いつも“戦争”そのものとは違う要素で腑に落ちないことがあります。
 それは何が善で何が悪か、です。
 ことアメリカは戦争を描く時は、自分たちをヒーロー化させるか、内部告発的に糾弾するかです。それが、何だかさめてしまうというかそんな気持ちにさせるのです。

 余談ですが、私は『ブラックホーク・ダウン』を見た時、激怒しました。
 これは1993年のソマリアの内戦に軍事介入したアメリカ軍による強襲作戦が民兵の攻撃によるヘリ墜落によって、泥沼の悪夢の市街戦に発展した時の話を映画化したものです。
 監督のリドリー・スコットはインタビューで「私は中立の立場でこの映画を作った」と言いました。
 見てみると、ややアメリカ寄りの視点ですが、これは仕方ないと思います。本当の中立的な視点というのは不可能だからです。それなりに中立で、迫力もありなかなかの良作だと思いました。
 ところが映画本編が終わりスタッフロールの流れる前、あるものが画面に映りました。
 それはその戦いにより死んでいったアメリカ兵の氏名リストでした。
 「何だこれは?」と私は思いました。そんな風に死んだ兵士を美化するような演出は、まるでアメリカが善でソマリアが悪といった様なものじゃないか。ソマリアの人々が何人死んだと思っているんだ。
 この強襲作戦により、内戦にどういう影響を与えたのか。この作戦がなかったらもっと泥沼になっていたのか。それはわかりませんし、この映画には関係ありません。
 リドリー・スコットが「中立」だと言うのなら、亡くなったソマリアの人々の名前も書くべきだったのではないか。表現者としておかしいじゃないか。
 そしてそのことについて、映画評論家は誰一人言及していない。それで更に怒りが倍増してしまい、リドリー・スコットに対し悲しい気持を持ちました。好きな監督だったのに……と。
 
 余談が長くなりました。
 要は善悪の要素が入ると気持が萎えるということです。『地獄の黙示録』は「戦争中に一人の男が一人の男を殺しに行く」という個人映画なので、面白く見ました。
 さて、『ジャーヘッド』はどうだったか。
 先に書いた通り、海兵隊員の目から見た戦争の姿です。そこには善も悪も、戦争の正体も何もありません。あるのは“戦争”そのものだけでした。
 奇しくも映画のワンシーンにこういうシーンがあります。ある兵士が「この戦争はアメリカが云々」というと、上官が「そんなことは俺たちには関係ない。俺たちはイラクにいるんだ」と言います(そのままではないですがニュアンスはこうです)。
 兵士にとって戦争というのは、敵に勝つことであり敵を殺すことに他ならないのです。戦争の原因も、何が善で何が悪かも関係ないのです。よく言われる“バーチャル感覚”“ゲーム感覚”なんてものとは程遠い、「ただ敵を殺す」ことだけを待ち、考え、実行する、異常過ぎる世界。
 それこそが戦争の正体なのかもしれません。そして、そんな異常な世界を作っていいのかどうかという是非を問うなら、間違いなく非です。
 理由原因経過結果、その時その時でいろいろあると思います。しかし、戦争という現象に対しては、ただ一言、心より「戦争反対」。そう思った映画でした。

 感動映画ではありません。アクション映画ではありません。テーマもメッセージも希薄です。しかし、とても良い作品でした。

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2006-02-02

先を越されてしまいました。今年も何卒宜しくお願い致します。
さて、私は年末年始は、「休肝日という言葉があったろうか」という日々を過ごしておりました。

地元埼玉から横浜まで赴いた日もありました。夜が明けるまで仲間たちと語り合った日もありました。何日か。本日はロハスなんてどこ吹く風の私の「酒ライフ」から印象に残った飲み会をお送り致します。

時は年始気分もすっかり抜けた1月21日。校了を終え、心身ともに衰弱しきり、更には雪の降りしきる中、私はマスコミの学校の授業へと向かいました。四時間にわたる有意義な授業のあと、本来ならば現在開講中の2期生の懇親会に参加するのだが、その日は体調と相談しやめたのだった。
ところが後になって「このまま帰るのは惜しい!体が酒を…(以下自粛)」と思い、1期生の仲間に連絡を取ると、どうやら集まっているという。特に「アウトロー組」と名づけられた気の置けない面々だったので、参加させてもらうことにした。(あ、私はマスコミの学校1期生でした。)

彼らは男性四人で飲んでおり、その中で三人は「姜尚中講演会」なるものに参加した後だったそうな。某氏は黒いタートルネックに身を包み、完全に「姜尚中スタイル」。既にお酒が入っているのか、モノマネもいつにもまして力が入っている。(しかも似ている!)。
講演会の内容は如何なものだったのか。メモを見るも三者三様。分かりやすいメモを残した人もいたが、なぜか「まんがきっさ」とひらがなで書かれたものも。何の話だ。しかも何故か講演会に参加しなかった某氏が一番内容について詳しかったと言う悲しい結果が、彼らの様子から伝わってきた。

お題は「マルチチュード」という概念について。
マルチチュードとは、特に近年イタリアの思想家・革命家アントニオ・ネグリが新たなる歴史の「変革主体」として位置づけたことで知られている言葉であり、元々は群集=多様性、多数性と約される。
ネグリとマイケル・ハートによる『<帝国>』および彼らの諸著作では、「主体の多様性」、「絶対的に差異化された集合体」「欲望を表現し、世界を変えようとする装置を体現するもの」などの意味を含むそうだ。難しい。もっと簡単に彼らは話していたと思うのだが…。
とにかく「多数の人間が国や地域を越えて結びつく、対等な関係のネットワーク」といった意味らしい。私の記憶によれば、だが。

それにしてもなんてアカデミックな話題なのだろう。
同世代のその集まりではじめこそ「姜尚中の靴がかっこよかった」などという話をしていたのだが、途中からは「マルチチュードとは!」といった白熱した議論が展開。まず一人脱落。私である。何のことやら。著作を見るも何やら分からず。第一、もうお酒を飲んでしまったのである。理解しようとする意志も薄弱。

その後、隣にいた某氏に「マルチチュードって分かる?」とこっそり囁けば、「わっかんねぇ」と頼もしい答え。心の中で、ニヤリ。仲間を見つけた。
更には半ば勝手に1期生の女性を呼び出し、くだらない話に終始。「『男たちの大和』の海軍の敬礼はどうか。脇が開きすぎではなかったか」など。横では「その帝国という概念はどうだこうだ」「実現可能などうのこうの」「それは所詮、トーシロ目線に過ぎない」などとまだ議論は展開。ここは一体どこだ。渋谷の「天狗」には到底ふさわしくない状況になっていた。

アカデミック議論とバカ話が平行して進み、二十三時ごろ会はお開きに。帰り際、「知的ストック」について学ぶ。「武田信玄ばっかり読んでちゃダメよ」(私は武田信玄が大好きなのです)と釘を刺され、一人悲しく帰路に着いたのである。

1期生の仲間たちとの出会いは本当に刺激的だ。講座卒業後もなんだかんだ集まったりしているが、毎回発見が多く、「頑張らなければ」という気にさせられもする。という訳で、こんな出会いもあるマスコミの学校、ただいま3期生募集中です。

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日垣隆『使えるレファ本150選』

 この連載もすっかり滞って半年。遂に年が明けてしまい、もうすぐ節分です。みなさん、恵方巻きはすでに予約しましたでしょうか。
 というわけで、立春をまえに改めて本の話をやっていきます。タイトルは「街場の新書たち」に変えましたが、新書以外の本も取り上げるかもしれません。

 さて、第一回目は本誌連載でもお馴染みの日垣隆さんの新刊。
 タイトルの「レファ本」というのは、レファレンスブックのことで、参考図書のことです。図書館などに行きますと、そいうコーナーを見かけますが、「レファレンス」というのはもともとは図書館用語で、「参考情報提供業務」のことだそうです。
 ちなみにyahoo!で検索してみますと、トップのほうに「利用者の皆さんが研究や調査にあたって図書館を効率よく利用していただけるよう、質問や相談を受付け、必要な情報を探し出す方法や手段をアドバイスするサービスのことです」とその説明がでてきます。著者の意図からすれば、こういう調べ方こそが安易なのですが。
 
 本書には、プロの書き手のみならず、増殖し続けているブログ開設者のために「読む人を唸らせ、恥をかかない」よう、著者が厳選した参考図書(辞書、事典、年鑑、図録、白書など)がずらっと並べてあります。
 インターネットの出現によって、われわれは以前とは比べ物にならないほど「調べる」ことを簡単に済ませられるようになりました。しかしネットにはノイズ的情報(不正確でウラのとれない情報)も多いこともまた事実です。
 しかもそうであることは、現在ではずいぶん広く認知されるようになってきました。ネット情報を信用せずにネットを使うということが、いま求められているわけですが、ここに収められたレファ本は、多くの専門家と校正・校閲をくぐってきた強兵であり、それだからこそ手元に置いて損はないと思えるものばかりです。私が一読しただけでも、ざっと50冊は揃えたいと思いました。少ないですか。
 
 たとえば、もうすぐトリノ・オリンピックが開催されますが、その「トリノ」を『コンサイス外国地名事典』(三省堂)で試しにひいてみると、「(イタリア)ピエモンテ州トリノ県の県都」とまずあり、「ローマの北西697km、パリの南東760km」に位置しているという地理的情報はもちろん、フィアット社の本拠地云々という一口情報もあわせて載っています。
 また、『日本俗語大事典』『大失言』などはめくってみれば、けっこう笑えたりします。手にしてみると、レファ本というのは、読物としても意外に面白い。
 しかし本書の効能は、そういった、お手軽なレファ本の紹介というよりも、「知的好奇心」をそそって、買い物心を刺激してしまう点にあるのではないでしょうか。あるいは、その延長上にレファ本を蒐集したい気にさせてしまう点にあるかもしれません。
 果たしてそれを「効能」といっていいのか。私はさして関心もないのに『刑事事実認定』上下巻を購入し、『世界戦争犯罪事典』を手にし、さらに『日本の財政 平成17年度版』の読書会までやろうかと考えております(ほんとか)。そういう意味で、”危険”な本でもあります(笑)。
 
 
■『使えるレファ本150選』
日垣隆 著
ちくま新書
\819(税込)
ISBN 4480062823

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私的WBC論(2)

前回の更新から中二日。今年はこんな感じで更新できたら“最高デ〜ス”。

というわけで早速、前回の続きといきたいと思う。前回は私的全日本論を述べたが、今回は本題のWBC論を述べたい。
約1カ月前だというのに、未だに参加者辞退が相次ぐWBC。サッカーのワールドカップの如く、世界一の王者を決める大会のはずなのに、なぜこんなにも選手間によって温度差があるのだろうか。大きく分けて問題点は次の三つが挙げられると思う。
①開催時期②選手の補償問題③大会における収入の不透明さ
この三つの問題点について、ワタクシなりの論を述べる。
①について。これは日本プロ野球選手会が最後まで問題視していたのだが、確かに開幕前の開催というのはいろいろと問題点があるだろう。しかし、公式戦終了後の開催となるとそれもまた問題がある。日本シリーズ、ワールドシリーズが終わるのを待ってからの開催となれば、代表チームとしての調整を含めると、早くても11月中旬の開催となるだろう。そうなると、ポストシーズンに進んでいないチームの選手たちは、1カ月〜1カ月半も実戦から遠ざかることになる。これはある意味、開幕前の開催よりも問題になるはずだ。実戦不足の不利については、昨年の日本シリーズでの阪神の例を見れば明白だ。これが第一の問題。開幕前、公式戦後とも問題があるとすれば、残るのはシーズン中しかない。そう、シーズン中に開催すればいいのだということになる。
②について。これはオリンピックにおける選手派遣時にもたびたび問題になっている。この問題は実はとても根が深い。プロ野球の選手は当然のことだが所属球団から給料を貰っている。それについての対価は、優勝=日本一(ワールドチャンピオン)となることである。しかし、WBCなどの国際大会に参加するためにチームを離れることになればその間、チームはその選手抜きで戦わねばならない。結果、公式戦で優勝を逃したら、いくら国際大会で優勝しても、球団にとってみれば本末顛倒と言わざるを得ない。極論を言えば、球団にとって国際大会の優勝などは全く関係のないことなのだ。
さらに重要なのは、球団にとってもだが選手にとっても大きな問題があるということだ。大会参加中に選手生命を脅かすような負傷に見舞われたときのことである。もちろん、公式戦においてその危険が全くないということはない。しかし、公式戦であれば“公傷”として認められるものでも、国際大会での負傷となると球団にとっては戦力的な損失ばかりか、何のプラスにもならない金銭的損失だけが残る。選手にとってみても、引退後の補償について、公式戦中での負傷であれば全面的にバックアップをしてくれるだろう。だが、国際大会での負傷がもとでの引退となれば、球団から全面的なバックアップはしないと言われても、反論することはできないかもしれない。
つまり、国際大会期間中のそれらの補償を球団に拠っていることが第二の問題なのである。このことがオリンピックにおけるプロのチームが選手派遣に反対した理由で、選手側の消極的な参加意志表明の背景となっている。
③について。これは特にメジャーの選手が問題にしている点である。WBCの一次予選は米本土とは関係ない場所で開催される。例えば、日本が参加するアジアリーグは東京ドームで行われるように。しかし、二次予選以降は米大陸本土での開催となり、本土で開催された試合の収益は全てMLB機構に入る仕組みとなっている。そのため、ヤンキースのシェフィールドが「機構の金儲けの大会」と痛烈に批判した。つまり、FAなどによって選手の年俸が高騰したことによる、MLB機構の財源確保のための大会としての面も多分にあるということだ。純粋に力と力を競う大会であるならばいざしらず、お金のための大会には何の魅力も感じないとする選手の言い分も一理あるわけだ。これが第三の問題点。
これらのことを踏まえて、私的に論じてみる。
❶WBCの開催を4年に1度とする。夏期・冬期オリンピック、サッカーのワールドカップ開催年とは別の年に行う。
❷開催時期は、6月もしくは7月の1カ月間。
❸その間は、各国とも公式戦は中断する。
❹日本の公式戦はWBC開催年に限り、セ・パ共に前後期の二期制とし、日本シリーズ前に前後期の優勝チームが七回戦制のプレーオフを行う。前後期の優勝が同一チームの場合は、年間の成績が二位のチームとプレーオフを行う。その場合、一位のチームに一勝のアドバンテージを与える。
❺WBC開催年は、日本野球機構へプロ野球12球団から各1億円を供出する。WBC期間中の日本代表選手の年俸分の割り当ては供出金で賄う。また、その期間中に発生する費用も供出金で賄う。
❻WBC期間中の選手の故障の補償に関して、その選手の故障が完治するまでの治療費等は供出金で支払う。また、選手寿命に係わる重大な故障の補償については、その故障がもとで引退した場合、当該年の残りの年俸の半分ずつを球団と機構で負担する。また、引退後の補償は機構が全面的にバックアップをする。
❼WBCの大会運営について。予選から決勝までは同一国内で開催する。開催国は、当面アメリカ、日本、韓国、ドミニカで持ち回る。その後、開催基準のレベルに達した国を順次追加していく。収益金のうち、開催費用を引いた利益は開催国が1/3、残りを参加国(もしくは二次リーグ進出国)の野球機構に分配する。日本についていえば、その分配金で補償の補填をする。

これがワタクシなりのWBC論である。これならば、諸問題をクリアすることができ、真の意味の世界一を決定する大会になるのではないだろうか。

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